明治44年(1911年)に植南清次郎(明治9年9月19日生)が、新京極三条下ル桜之町(旧松竹座の向かい)に「牛なべや」の「いろは」を創業しました。
大正6年(1917年)には四条鉄橋西詰めの京料理「浪花楼」跡に移転し、同13年(1924)木造3階建ての「すきやきや」を新築開店致しました。
当時は3階建ての建物から、眼下に広がる鴨川や東山から大文字に至る三十六峯を眺望できるすきやきの老舗として多くの方々に親しまれてきました。
鴨川対岸の「南座」からも出演した役者さんたちが芝居がはねた後に訪れることも多く、四条通に面した好立地もあって、大正期以降から京都名所を紹介する様々な書籍や写真、映像にいろはの姿が記録されてきました。
また勝新太郎・田宮二郎コンビによる人気映画「惡名」において「道頓堀の牛なべや」としてスクリーンにも登場しました。
※本店は当分の間、お休みさせていただいています。「浪花楼」(図版出典:『都の魁』(上)p127、明治16年石田有年)
「南座」(図版出典:国際日本文化センター所蔵)
いろは北店は江戸時代に先斗町屈指のお茶屋「大文字屋」として使われていた建物を改修し、昭和39年(1964年)に開店しました。幕末の激動の歴史にも「大文字屋」の名が刻まれています。
“幕末文久2年(1862年)閏8月20日夜、降りしきる雨の中を越後寺泊の志士、本間精一郎は芸妓を連れて大文字屋へ入った。かれこれ四つ時後、大酔の態で大文字屋を出て木屋町へ向かう路地にさしかかったところ、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵ら8人の刺客に襲われ命を落とした。(中沢茎夫『幕末暗殺史録』昭41年 雄山閣より)”
“当時の大文字屋は、芸妓80人、遊妓19人を擁する先斗町でも指折りのお茶屋であった。(『四方のはな』慶応3年井筒舎)”
この「大文字屋」が現在の「いろは北店」と言われており、本間精一郎ゆかりの地として訪れる人に「葵くずしの欄間」が当時の面影を伝えています。
平成4年の改築時に先斗町石屋町ギャラリーに全12室の襖絵のプロデュースを依頼し、幕末より受け継がれてきた京のたたずまいにさまざまな現代美術が彩りを添えています。上:本間精一郎遭難之碑
「本間精一郎遭難之地」の碑は木屋町通にあります。
中:葵くずしの欄間
「葵くずしの欄間」は北店2階にあります。
下:いろは北店の室礼
床の間、違い棚、ふすまなどに現代アートを設えています。
寛文10年(1670)の鴨川護岸工事によって三条大橋下流の鴨川右岸に、鴨川と高瀬川に挟まれた細長い「新河原町」がつくられました。その後の区画整備によって、北は瑞泉寺の南塀に接する石屋町にはじまり、南は四条通りを越えて西石垣の橋本町に至る全長600メーターにおよぶ細長い地形から、先斗町と呼ばれるようになりました。
一説には、木屋町通りに通じる南北50数本の細い路地が百足(ムカデ)の足のようで、ポルトガル語で百を意味する「Cento(セント)」が転じて「先斗町」と俗称されるようになったとも言われております。
あるいは、先端の尖った槍のような街割りを形容して、ポルトガル語の「ponta(ポンタ)」「とがった先端」から「ぽんと町」とあだ名されたのが、「先斗」と書いて「ぽんと」と読む由縁と言われております。図:「新河原町」 当時から多くの路地があった。
引き続き9時閉店(ご来店は8時まで)とさせて頂くことになりました。
あしからずご了承くださいませ。